素晴らしい日本人に聞くシリーズ
世界のトップブランドを目指して
- ドトールコーヒー名誉会長 鳥羽 博道様
- プロフィール
ドトールコーヒー名誉会長
1937年、埼玉県生まれ。県立深谷商業高校を中退し、東京で喫茶業に入る。1958年、ブラジルへ渡航。
帰国後の1962年にドトールコーヒーを設立。
2005年、社長を子息の鳥羽豊氏に譲り翌年から現職。
ドトールコーヒーは日本レストランシステムと2007年に経営統合し、共同持ち株会社の傘下に入る。
著書に『ドトールコーヒー「勝つか死ぬか」の創業記』(日経ビジネス人文庫)等。
第一章
「サラリーマンを助けなくてはいけない」が起業の動機
藤原美津子: 『ドトールコーヒー』の創業者でもあり、現在は名誉会長でいらっしゃる鳥羽博道様の業績は、多くの方がご存じでいらっしゃいます。
日本のコーヒー文化に革命を起こし、今日のコーヒー大国・日本を作り上げた鳥羽会長ですが、今なお日本のコーヒー文化の改革、発展を目指して、精力的に活動をなさっていらっしゃいます。
特に業界初の150円のコーヒーは、大変に印象的で話題になりました。本日は、そのあたりのお話をじっくり聞かせて頂こうと思います。
鳥羽博道会長:ちょうど経済の成長率が鈍化してきた時代でした。ある商社の方とお話をしていたときに、その方が「可処分所得が低下してきた」というお話をされたのです。
藤原美津子:「可処分所得」とは、どのようなものでしょうか?
鳥羽博道会長:「可処分所得」とは、所得の総額から直接税や社会保険料などを差し引いた残りの部分で、個人が自由に処分できる所得。いわゆる手取り収入のことですね。
株式会社ドトールコーヒー
名誉会長 鳥羽博道様
「可処分所得が低下してきた」とは、給料は変わらないのに、インフレーションで物価が上昇している状態……つまり、実際の給料が、減っていることと同じこと……という意味なんです。
その時、ぼくが瞬間的に思ったのは、「サラリーマンを助けなくてはいけない」ということでした。
すでにその当時の日本人にとって、コーヒーは嗜好品ではなく、「生活必需品」になっていました。
朝一杯のコーヒーを飲まないと、落ち着かない、仕事が手につかないという人が大勢いて、ぼく自身もそのひとりでした。
「可処分所得が低下してきた」という状況にある中、普通のサラリーマンにとって、コーヒーを毎日飲むということは、経済的にかなり負担になるのではないかと感じたのです。
藤原美津子:確かに、コーヒーが1杯300円も400円もして、それが毎日のこととなると経済的には大きな負担になりますね。
鳥羽博道会長:では、毎日負担なく飲めるコーヒーの金額というのは、いくらなのだろう…とぼくは考えました。
そこから、『ドトールコーヒー』の150円という金額が決まったのです。150円というのは、ちょうどその当時のタバコ1箱の値段です。
次に、150円でコーヒーを提供できるようにするには、どうしたらいいだろう……と考えました。
当時150円で買えるコーヒーは、紙コップのコーヒーでした。また安く提供するためには、「立ち飲み」という方法もあるかもしれない。
ですが、紙コップで飲むコーヒーは、人の心をわびしくしてしまいます。
人に何かを提供する場合、それが人の心を豊かにするものでなければいけません。ですので、紙コップでの提供は考えませんでした。
藤原美津子:「サラリーマンを助けなければいけない」、そして「人の心を豊かにしたい」それが『ドトールコーヒー』を始められた理由だったのですね。
鳥羽博道会長:では、どうしたら人の心を豊かにできるだろうか…と考えました。それでぼくはコーヒーを提供するシチュエーションにこだわったのです。
たとえば、当時一般的な業務用のコーヒーカップは200円、スプーンも200円という価格でした。
ですが『ドトールコーヒー』では、『ナルミ』のボーンチャイナを使ったのです。これは大変優雅な雰囲気を持つ、高級カップです。スプーンは、純銀製の『LUCKYWOOD』を使いました。
150円のコーヒーを売りながら、実は3200円のコーヒーカップと1700円のスプーンを使ったわけです。
「そんなことをしたら、持ってかれちゃうよ」と、周りからは大反対されましたが、ぼくは全然、そういうことは考えませんでした。
経済原則に従って、安く安く……とビジネスを組み立てて行くと、何もかもがチープなものになってしまいます。
コーヒーは安いけれど、その1杯で、心からくつろげるような空間と時間をご提供する。
いかにして人の心を豊かにするか……と考えていったことが、結果的に『ドトールコーヒー』の成功につながったのではないかと思います。
藤原美津子:「確かに、私が一番最初に『ドトールコーヒー』に行った時に感じたのは、「ああ、紙コップではなく、コーヒーカップで飲むコーヒーはこんなに心が満たされるのだ」という癒しとくつろぎでしたね。
「長い時間いられる」ということではなく、短い時間の中でも、心がゆったりと解放される感覚を持てるのは、そういう背景があったからなのですね。